昭和44年8月22日 朝の御理解


 御理解第39節「この方の行は水や火の行ではない家業の行ぞ」
 御理解第40節「重いものをおうているか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心         は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい」
 
 39節、40節に出てまいりますこの家業という事。家業の行と。40節にも家業を勤め勤めするがよいと。こういう楽な意味においての家業。または水や火の行ではない意味においての家業とはどういう家業のことであろう。今日はこの家業というところに焦点をおいて話を聞いてもらいたい。
 お互いそれぞれ家業を持たないものはありません。奥様家業。ね、お勤め家業。様々な私は百姓が家業であると。私は金光様の先生が家業であると。そういう意味で、言う、家業ではないようですね。家業の行とは、ね、信心をそう苦しいものにしてはいけない。重いものをもっておるといったようなものではない。家業を勤め勤めするがよいという事は、信心は楽じゃ、家業を務め勤めするがよいと。ですからこの辺のところを間違いますといつもここが間違うてくるのですよね。この方の行は火や水の行ではないと仰るからというて、表行をおろそかにする。ね。信心は楽じゃ家業を務め勤めするが良いと仰るから、急がしかときにお参りはせんでもよい。とまあ、いうような風に殆んどこの39節、40節はとっておるようです。ですからおかげが受けられん。そして信心が楽なものに、例えば39節40節という事、この事にも今日頂くのですけれども、さんじゅうくとはサンキューと書いてあるし、40節はしじゅうと書いてある。言わばしじゅうという事はいつもということであろう。さんじゅうくとは有り難いという事であろう。サンキューであり、ね、始終いつもという意味。いうなればいつもありがたいというのである。このところにも本当に神様のご神意を感じんわけには参りませんよね。
 教祖の神様が自分の話して折ることを書き留めて書き残しておけと、またはそれを書かせられ、その時分の当時の偉い先生の中に佐藤宿老という先生があった。後に宿老になられたですね。佐藤紀雄という先生がおられた。若くして、御神縁を頂かれて大体は大工さんであったけれども、一度その御神縁を頂かれてからは、熱烈な御信心をなされ、当時のまあいわゆる教学(?)としてですね非常に学問の好きな方であった。いつも大工さんの時の大工さんの道具箱には必ず難しい本がちゃっと入れてあって、暇暇に勉強をされる。えー、天皇陛下の前で御前講義までなさった方ですから、相当頭のいい、身は大工さんからおこされたのですけれども、それを廃業されてお道の教師におとりたて頂いて現在の何回も教官を勤められまして、今の学院長のお父さんになるわけです。その学院長はその一番下のお子さんにあたられる。三代金光様の奥様になられたキクヨ姫様も佐藤宿老のお嬢さんであったというように、大変な奥方が出来ておられますですね。その佐藤紀雄問いう先生に、が、あの道を立てられたに、(?)その教えを沢山の教えをまとめておかなければならん、もう、いわゆる教祖の神様の生き方というのは人が助かる事さえ出来ればというおあり方でございましたけれども、そのことを書き残す事を書かれる事を教祖様はあんまり、お喜びにならなかった。教会設立といったようなことでも、「この方は人が助かりさえすればよい」といったような、風にお答えになっておられますように、それでもね、「教祖様御一代はそれで良いかもしれませんけれども、このありがたい教えを後々まで、伝えたい」というので、それから教祖様も段々そんなら自分が言う事を書き残して、書き写せという風に仰っておられてそしてそれを佐藤宿老が紀雄先生がそれをお書きになって、一冊なら一冊にまとまりますとお届けをされる。お届けをされるとそれをご神前に持っていって御祈念をなさる。そしてそれを改めて検討なさる。神様から色々お指図を受けられるままにそうした、いわゆる現在の金光教教典なるものが出来たわけですね。この神誡神訓というこれはそういう、大変深い意味があると同時に日頃頂かれる御理解というものを百節をまとめられて、百三十三節でしたかね、それがお道の教典ということになった。いうなればこれはだから佐藤宿老がこういう風にまあ、お作りなったと言ってもよいのです。
 けれども、そこにですね教祖の祈りというものが、あって例えばこの39節とか40節とかと言う風にですね、組んでいかれたというですかね、そういう中にねいかに(?)かんながらな働きがあったのかと私は一言一句の中にも深いご神意があるといい、またはその39節40節これはご理解じゃないです。いうならば。けれども、こういう(  ?  )頂きますとね、ははあー成る程この39節40節を頂いてみてです、それはどういう事にならなければならないのかというと成る程、39というのはね英語では有り難いということであるし、40というのはいつもということであるし、いつもありがたいという心。いつも勿体無い有り難いと言う心でですね、その、家業ができるという家業。今日ここの2節から、ね、39節40節から頂くところの家業の行と。または信心は楽じゃ家業を勤め勤めするがよいとあるその家業の行。だからこういうご理解を頂きますと、ははあ金光様の信心ちゃ楽じゃと忙しか時には参らんでよかと、ね、仕事をしながら、または、金光様の信心とは信心といえば必ず、火の行、水の行といったような様々な行、表行があったが、そういう事はせんでも家業さえしとれば仕事さへしとればそのこと自体が家業なのだからという風にまあ、楽な方へと( ? )なんですけれども、その根本ところが違う。ね。只、さっきから私言う、奥様家業とか、ね、その、お勤め家業とかいうそれはどこまでも例えば食べるための行。人間が生きていくための行。ね。商売家業というても儲からんための商売家業である。これでは始終喜びといったようなことには繋がりませんよね。
 ですから家業そのものがですね、この、喜びでなされるような家業とはどういう家業の事だろうか。ね。例えば、金光様の先生、あの、坊さんの悪口に売僧坊という事がありますよね。いわゆるその(? )のことをいうのですね。売僧坊主と。ね。お寺をいわゆる宗教を売り物にする。教えを売り物にしている。自分の生活の為の宗教にしてしまっておる。ね。生活の為の宗教と。ね。これは今朝から売僧坊主という事を頂いていうなら売僧先生になっちゃいかんなと私自身思わせて頂きました。いうならばです、私はここに座っておくのが家業だと。いうような事になってはならないという事です。先生が7時間座んなさって8時間座たっちゃそれが仕事だから、ね、それが私は自分例えば一家の生活のための私はお取次ぎ者で、ような事に堕落してはならんなと私自身感じさせて頂いたのですけれどもね。段々私はそういうような先生方がいつの間にか出来ておるようなことはなかろうかと、まあ、杞憂の念を抱くのでございます。ね。わずかばかりの信者もう長い相当の何十年という信心、教会の、その歴史を持っておる教会が僅かばかりの信者でまあようあそこは生活が立っていくたいち。いうような教会はいくらでもあります。それでもやっぱり「先生達はちゃんとしてから、自家用車どん持ってからやっていくことを見るとやっぱあれだけでたっていきよるとたい」というとこがありますよ。ね。もうだからそこの信者はそこの教会が立つことの為に何人かで一生懸命、お参りしよるという事になる。ね。そういう教会が私はあると思うのです、沢山あると思うです。
 金光教の本当のひれいを現しきらず、本当に人が助かることのためにも、ただ、止めはきらんといったような信者がですその教会に僅かばかりついておる。しかもその僅かばかりの信者でたっておるとするとその教会の家族を養うために少しばかりの信者があると。私はこういうのはもう、売僧先生に成り果てようとしておるような感じがいたしますよね。もういわばその取次者じょうになってしまっておる。先日ある先生が見えられてから、偉い先生です。が、あの、こういう事を言われた。「最近はお取次ぎをされる先生じゃなくてから、お取り込み先生が多かですもんね」ちいわしゃった。ある教会の事をさしてそう言われるのです。ね。あっちなんかいよいよ劣りこみじゃ。御取り込みのほうばっかり一生懸命やらっしゃるばってん、お取次ぎが出来とらんと。いわゆる御取り込み先生である。もういうならばその事が家業になってしまっておる。それが仕事になっておる。ね。それが生活のためのそれになっておる。というようなことではですよね、ここで言うところの家業とはそういう意味じゃないと。
 昨日、親教会大祭のお礼に総代さんが、熊谷さんと久富さんが総代さん代表して一緒に同道してくださいましてからお礼に出らせて頂いて帰りましてからでした。お茶を頂いておりますときに皆さん帰られた後でしたかな、後だったでしょう。まあ今日は帰らせて頂かなければならんと言うて、早く帰ろうとしておられたけれども久富さんですね、まあ、次々お客さんがあるもんですから、あの、お茶の御用をしておられました。それが終わってから、改まってお取次ぎお礼を言われるんです。「先生が御結界につかれてから、お礼を申し上げようと」「私はもう久富先生が見えておるから変わらんよとここでいいですが」というてから、「ここでお取次ぎお願いします」というてからお礼を言うておられます中にですね、ちょうど大祭前に、今度は総勢五日くらい続きましたでしょうか、泊り込みが繁雄さん、五日くらい続きました?(六日くらい)六日でしたか。六日間御大祭前、泊まり込みで御用でございました。繁雄さんなんかが、あんまり帰りなさらんけんで、もう敷居が高くなって家には入り込みにくいあんなさるとじゃなかろうかというくらいにその六日間も続いた訳です。けれどもやっぱりあの、奥さんが参って見える。子供達が参ってくる。月次祭となりゃ、もう一家をあげて、皆、( ? )参ってきとるけんで、それでも(  ?  )ちょうど大祭の前の日に着物取りにいかなならんからというて帰られた。もうちょっと帰られた。その時に息子さんの国男さんが最近はねお父さんは合楽で御用を頂いて頂くようになってから、もう、大変なお野菜が高値を呼んでいる。それは行くところ、市場がもう、佐賀からあっちは羽犬塚あたり福島あたりですね、北九州のあらゆるあっちこっちの市場に行くわけです。だから、高いところもあれば安いところもあるわけです。それがもういつもいつもその、最高というようなところである。ね、現在特にこのキャベツが出ておるそうですがもう、始め、こういう高値を呼ぶことは初めてだと。あの小さいトラックの一つでも持っていけば、五万円くらいになる。本当にもうおかげを頂いてからお父さんが合楽で一生懸命御用を頂いてもらいよるけんでこっちはおかげを頂きよるとばいというて国男さんが家族に話されるんです。それで家の者はもう帰ってきてもらわんほうがよか(  ?  )。ちょうど帰られた日に北九州のほうから帰ってきておるところであった。「お父さん今日はいつもの倍じゃった」ち、まあいうなら、日頃五万円しておるのが、今日はまた、10万円がたあったというわけである。おかげでもう本当に何も御用も出来ぬから、こうやって打ち込んだ(?)御用でもさせてもらわにゃとただ、そういう意味で大祭御用だったところが、いつもよりも有り難いお供えならお供えの御用もいつもよりも出来たという事。もう、( ? )感動してから感激しながら、( ? )私も本当に繁雄さん有り難い事じゃあるもんのち言うてから、お互い感激しあうた事でした。確かにこの神様は嘘を仰らん。( ? )なしらさらん。「氏子が神の用をたせば、氏子の用は神が足してやる」と仰るが、氏子が一人、例えば繁雄さんが一人家でばたばたしよるこっちゃ事ではとても、届かんほどしのおかげを受けておられるという事である。しかも、大祭前の六日間というものをです、本当に(  ?  )御用も出来んから、自分は体を持って御用を頂こうと、(  ?  )の御用も出来た、いつもの大祭の時よりもかえってお供えなんかも思いきったお供えが出来たというほどしにおかげを受けておる。しかも、その長男がその、家族中のものに「お父さんが合楽であげん御用を頂きござりよるけん、おかげ頂きよるとぞ」というておる、息子からそれを聞いてかえって見えてですね、まあ感激しておられるわけでございます。ね。ですからこげな御用ば頂きよりゃ神様は必ずおかげを下さるけんといったようなものではなくてです、もうどこまでも謙虚なというかどこまでも純粋なというか、ね、神様の御用を、成る程こういう精神で御用を頂きゃ氏子には神様がやっぱり氏子の用は神様が足してやると仰るが、有り難いことだと私そのお届けのお礼を申させて頂きよりましたら、御心眼にですね、今は知らん方が多いかもしれませんですよね。あの、お大師さん参り、(遍照根号?)を言うてまわられる方達が、あの、おゆずりというですか、あれがですね、私が頂くのが両足が白で、中が真っ赤のおゆずりなんです。その真中の赤いところへ、同行二人と書いてある。ね。あなたが、色々言って、色々違うんでしょ確か。けれども私はそのそれから、感じたことは真っ赤というのは信心の熱情だと思いました。その真っ赤な信心の熱情に対してこの白が伴うておるということは白というのは神様、神という事だと思うた。ね。ははあー本当に同行二人とか、神、我とともにありというのはお道の信心で言い古された言葉です。
 ね。いつも神我と共にあり。いつも神様と共にあるのだと。それをお大師様は同行二人という風にいうておられるわけです。いつもお大師様と御一緒だという意味なんでしょう。
 ね。もうそういう意味合いで同行二人とか、我とともにありという事はどういうことかと。ね。ちょうど繁雄さんが六日間御用を頂かれましたその六日間こそが神我と共にあり、同行二人でありという事になるのです。ね。純粋な心で真心を持って、真心を持って神様の御用をさせて頂いておる。だから神様の御用をさせて頂いておるという事そのことがです、なら金光様唱えよらんでもです、神様が我と共にある、同行二人といわんでもです、ようする、真っ赤なその信心に、神様の方が寄り添うて下さるわけです。ね。神様の御用をなされておるところへ、神様のほうがです、それに寄り添うて下さるち。もう私は本当に私は夕べその事を上野さんが今度学院、夏休みで帰ってきておりますから、その宿題としてお広前で頂いておる御用その精神というか、どういう心がけでとか、ね、どういう御用をしておるかといったようなことをテーマにして一つのまあ作文をしなければならないというて御届けをしております。自分としてもさあどいうことを書かせてもらおうか、どんなことを書こうかと思いわずらっておるようですけれども中々その良いあれが出てこない。そこで私は昨日御祈念がすんでから上野さんを呼びましてからね、私に今からいう事をこの事を骨子にして、筋にしてあの文章を書きなさい。というてあの久富さんのその事を私話したことでございました。なるほど御用御用といいよりますけれども、ね、それが例えば、あー、家業、ね、さっきから言うその生きていくための仕事と、行といったようなことになりかねないし、またそれになりはてつつあるといったようなところからですね、書いたらよかろうとまあ申しましたがですね、本当に私共が随分聞いて言葉の中にただ今申します、神我と共にありという事とはどういう事かと。金光様金光様といつも唱えておることが果たして金光様が私共と共にあってくださる事であろうか。我情我欲を満たしてもらう為に金光様といいよるならば、それはほんなもんじゃないて。神様が寄り添うてはござらんて。けれど、ね、神様の御用を純粋な心でなされ、その事が神と共にある、いわゆる( ? )同行二人。そういう信心の熱情こそが神様がそれに寄り添うて下さるのである。ね。ですからそこから今日のお話の中心になるのですけれども、ならそういう心で農業の行であり商業の行であると言うことになってくるのでございます。だからその商業なら商業、農業なら農業がです、食べるために百姓をしておるのだと、儲かる事のためにお商売をしておるのだという時にはです私共が今までここの39節40節から、ね、金光様の信心ちゃ楽じゃ、仕事しながら信心が出来れる。この方の行は火や水の行ではないと仰るから、ね、そんな行はせんでもと家業の行ばしよりゃそれば神様が受けてくださる行のように思うておるところの間違いを正して、ね、そういう思い方ではない事を一つ分からせて頂いて、ね、始終サンキューである。いつも有り難いというような心で御用をさせて頂くというような事はそれが社会に奉仕というかね、社会への奉仕というか、人が助かって行く事のためと申しましょうか、または働くと言う事ははたが楽になていっく、周囲が楽になっていく。事のために、の、家業をさせて頂いておるんだという家業になってまいりますと、商売さして頂いておるものはどこまでも、お客さんに喜んでもらう事をモットーにして、ご理解にもありますように、仕入れ先の方もまた、売り先のほうもまた大事にしながら喜んでもらえるお商売が出来る。そういうお商売が出来る人の上に神様がいつもよりそうて、これが同行二人だと言うことになるのです。ね。健康で鍬を振るっておる、鍬を持って折るその手に、有り難い、それこそ汗やら涙やらわからんようなありがたさいっぱいで百姓の行が出来る。天地のお恵みに感謝しながら感動しながら、御用が出来る。何と有り難い家業を頂いたことだろうかと例えば百姓する人がその百姓そのものにほれ込んで、ね、これが神様のお喜び頂けれる御用に繋がるのだ、社会の奉仕に繋がるのだという、精神を持ってその御用がなされるならばです、それが本当の神われと共にあり、もう来て下さい、私とともにあってくださいといわんでも思わないでも神様がもう、寄り添うて下さるんだと、言うことになるのです。ね。ですからお互いの家業というものが、そういう内容が段々深く広くなっていかなければならんということがいえますけれども、もういくら使うたっちゃ、例えばお百姓さんなんかがですね、( ?  )例えば出してもです、油代もなかごたる時があったですよね。例えば久富さんあたりの時なんかでも。もうだから、もう、( ? )畑の中にくさらかしておる。という時代もあった。こげな馬鹿らしい仕事はなか、百姓ごたる、と、いう事はないのです。安い高いは問題じゃない。けれどもです、けれどもそういう信心。例えば繁雄さんが、御大祭前に六日間御用を頂かれた精神を持って、御用をされるならです、次にはそういう今までかつてなかったというようなおかげがです、ね、それこそ一台が5万円というただけでもちょいとたまがるくらいに高い高値だそうです。それが今日はどこどこの市場にいったらそれがその倍したというようなです、お繰り合わせになって必ず現れてくるのだと。ね。お父さんが合楽で打ち込んで御用を頂いてくれてあるからという事になる。ね。私はその事を頂いて改めてです、御道でいうところの神我と共にありという事は神我と共にありという働きが私の心の中にですね頂けれるときにですね私は始終有り難いと言うことになるのではないかとこう思うのです。ね。私ともその家業という「此の方の行は水や火の行ではない家業の行ぞ」と「重い物をおうておるか担いでおれば苦しいがそうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい」楽じゃと仰る家業というのは儲かるためのという事になったらほんにもう、それこそ、働き損のくたびれ儲けだったといったことではなくてです、ね、神様にお喜び頂けれる御用をさせて頂くというです、有り難い、楽な家業。ここで教えておられる家業とはそういう家業。または、水や火の行ではない家業の行ぞと仰る行とはただ今私が申しますような行になって初めて水や火の行以上のです、ね、苦労にならんほどしの行をして家業の行を神様が受けてくださることになる。そういう家業をさせて頂けれる内容をですね、頂かせて頂く為に、いわゆる真っ赤な熱情とでも申しましょうか、( ? )真っ赤に燃えるような色。その横に白いそれが伴うて一つのおいずりが出来ておるように、そこの真中に同行二人と書いてあるように、ね、そういう真っ赤な信心の熱情というものがです今日申しますような意味合いにおいての家業の内容になってくるときにです、神我と共にありという本当の意味とでも申しましょうかね、成る程これが同行二人の信心だと思わせて頂けれるようなおかげが頂けれる。そこを一つ目指さなければいけない。ね、これは売僧坊主ではない、ね、売僧先生じゃない。いわゆる売僧先生に成り果ててはいけない。只、おかげを頂くけん参りよるとといったような売僧信心だと思う。ね。同じ形がであってもです内容がそこにです純粋と真心がです家業の行の上に内容になってくる時初めて本当の意味での同行二人という思わなければおられないほどしの感動がこれに起こってくる。喜びがおこってくる。その喜びにおかげがいやが上にも伴うてくるというようなおかげを頂きたいものですね。
                                     どうぞ